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ニッポンの冬 ニッポンの冬の旅
旅行先 : 神戸 大阪ほか
 時期 : 2004 12月〜
SAFARI NJEMA ――よい、旅を!――
――湯煙の向こうにまるくん、です!――

ちゃんと意味がありました。
アタシはこうして朧ながらも、今、こうしてみなさんと正対して語りかけています。
あなたの、そしてアタシのココロの旅路の全容を解明してまいりましょう。
共に、学びあいませんか?!


・・・・・・な〜〜んて、申しながら、最終日
アタシは分科会抜け出して、別府駅にいます。
購入した切符は、日豊線で下ること約1時間の臼杵駅まで、です。
アタシは、かれこれ、ちょうど10年前の「忘れ物」を拾いに行く気分でありました。
 
 臼杵には、有名な石仏群があります。
平安時代から鎌倉時代にかけて造られたものです。奈良時代に豊後国の国府が置かれ、大友氏の本拠地として繁栄した地であります。
 で、アタシが「拾いに」行く目的地は、そうなんですが、その理由はまた別のお話です。
 たびたび、思い出話で恐縮ですが、トキを10年前の1993年に戻しましょう―――。

 2月のことです――。
アタシ、当時ダイスキだった人にフラレましたの。。。「まるくんは、一人でなんでもできるし、一人で生きていけるタイプ。アタシ、怖いんです。。」―――。
・・・・・こんな、お別れの言葉でした。
1992年、9月に彼女には、ギリシア土産の名前入りのカメオ(よく使った手/爆)を渡したけど、深夜の埠頭で、返品されました。。。
それっきり、でした。ストーカーまがいの電話もしました、正直申しまして。。。。
それぐらい入れ込んでいた自負もあったし、相性も抜群だった(はず)し、おまけに、体の相性がこのうえなくよかったんです。。。
9月に振られて、翌年2月まで余韻に浸りきるなんて後にも先にも経験ないんです・・。
 悶々とした日常を分断しようと、センチメンタルなジャーニーにでかけることにしました。
行き先は鹿児島に定めました。
陽光きらめくダイスキなナポリの景色にそっくりだと前々から憧れていたのです。
八幡浜から船で臼杵に渡り、第一日は延岡に宿を取りました。そして翌日、日向の美しい海岸沿いの車窓に見とれつつ、浮世のうさばらしをしながら、アタシは生きる活力を再び、見出しつつありました。欲もでました。霧島で途中下車し、霧島神宮や高原へも足を伸ばしました。
 そして霧島からは鈍行で湾曲する海を朧に眺めながらうたた寝し、夕刻、薄い黒煙をあげる桜島を背にした港で、ベスビィオ火山の噴火による街の惨劇に想いを馳せる、ついでにJ・バーグマンの映画「イタリア旅行」をも思いを馳せて、アタシのココロの噴火活動は、げに賑やかなものよと、自分で感心しつつ、天文館で祝杯をあげて、鹿児島郊外のTホテルの地下のバーで、いかした女性バーテンダーに熱をあげておりました。
 翌日は一路再び延岡へ。
そして、高千穂鉄道で高千穂へ足を伸ばすという、思いもかけない小旅行もしました。
山を山岳鉄道のような汽車で五ケ瀬川の渓谷を行くのですが、神話の世界をなぞるように「日之影」「影町」「深角」「天岩戸」と駅名がとても素敵なんです。
 で、失われたときを求めるにあまりあるときをすごして、臼杵駅前のロータリー、乗船港へ向う真際、滑りこんできた路線バス。
そこに一人の観光客風情の女子大生風が乗り込み、しばらく停車してました。
乗客は彼女のみでした。
アタシは息を飲み込みました。なんて可憐な人でしょう・・・アタシのセンチはその『瞬間』
吹っ飛んで、遥か彼方のカニ座星雲にでも消えていってしまったのです。バスは臼杵石仏行きと表示されていました。乗るか、乗らなまいか悩みながら、帰りの乗船券とにらめっこしていたら、バスは行ってしまいました―――。

 ―――あの日、あの時も、臼杵は雨でした。
当時、アタシは傘など持っていませんでした。
まだ、堂ケ迫の大日如来の頭は侵食により分離されたままでした。それらの未修復の石仏群をアタシはあの彼女の傘に入れてもらい、アタシの旅を成就させるべきだったと、何度も悔やみながら、一つの旅を終えた後に、再び魂は彷徨っていたのです。

―――そして、雨煙る、この日、アタシは当時の落とし前をつけるため、大日如来の鎮座する小高い丘に立ちました。
麓のホキの石仏群あたりから団体用のスピーカーを通した声が耳障りでもありました。

仏の顔も様々でした。
しかし、アタシはそのとき、そう思った瞬間に
開眼したことがありました。
――みんな、違う。
でも、ことさら違いを『強調』する必要なんてあるのだろうか?アタシ(たち)は雨にうたれるクラゲのようなものだ。浮遊を続ける。
しかし、やがて、人間としての生命を真っ当するときは誰にでも訪れる。
そうすれば、アタシ(たち)はどうなるか?
焼かれて、現体重の12%ほどの炭素になる。
その『炭素』は等しく重力は『同じ』だ。
そして空気とまざり、二酸化炭素となり大気圏内を『等し』く漂い、やがて別の生命のなにがしかの息吹となる―――奇跡的に―――。

つらい人、迷う人、死を恐れる人、哀しい人すべてが同じ炭素からはじまる・・・・・。

 臼杵から往復の別府へ帰るつもりが、大分で下車した。
駅前のアーケード商店街があります。
その入り口に大きなCDショップがあります。
その店の奥のJポップスのコーナーに、カウンターがあります。
そこにいる女性を知ってますか?
この世の方とまがうことなき、それはそれは美しい女性でした―――。
 アタシは思い出、を決して美化しません。
あるのは、どう導いても、美しい過去ばかりです。アタシは恐れない。
炭素になり、あなたがたと交わる日を、実は恐れながらも、今、をまっとうしたい。

 臼杵、鹿児島、大分、別府に、そして別れた埠頭を紡ぐ二つの旅となった――――。

 

SAFARI NJEMA ――よい、旅を!――
――湯煙の向こうにまるくん、です!――

ちゃんと意味がありました。
アタシはこうして朧ながらも、今、こうしてみなさんと正対して語りかけています。
あなたの、そしてアタシのココロの旅路の全容を解明してまいりましょう。
共に、学びあいませんか?!


・・・・・・な〜〜んて、申しながら、最終日
アタシは分科会抜け出して、別府駅にいます。
購入した切符は、日豊線で下ること約1時間の臼杵駅まで、です。
アタシは、かれこれ、ちょうど10年前の「忘れ物」を拾いに行く気分でありました。
 
 臼杵には、有名な石仏群があります。
平安時代から鎌倉時代にかけて造られたものです。奈良時代に豊後国の国府が置かれ、大友氏の本拠地として繁栄した地であります。
 で、アタシが「拾いに」行く目的地は、そうなんですが、その理由はまた別のお話です。
 たびたび、思い出話で恐縮ですが、トキを10年前の1993年に戻しましょう―――。

 2月のことです――。
アタシ、当時ダイスキだった人にフラレましたの。。。「まるくんは、一人でなんでもできるし、一人で生きていけるタイプ。アタシ、怖いんです。。」―――。
・・・・・こんな、お別れの言葉でした。
1992年、9月に彼女には、ギリシア土産の名前入りのカメオ(よく使った手/爆)を渡したけど、深夜の埠頭で、返品されました。。。
それっきり、でした。ストーカーまがいの電話もしました、正直申しまして。。。。
それぐらい入れ込んでいた自負もあったし、相性も抜群だった(はず)し、おまけに、体の相性がこのうえなくよかったんです。。。
9月に振られて、翌年2月まで余韻に浸りきるなんて後にも先にも経験ないんです・・。
 悶々とした日常を分断しようと、センチメンタルなジャーニーにでかけることにしました。
行き先は鹿児島に定めました。
陽光きらめくダイスキなナポリの景色にそっくりだと前々から憧れていたのです。
八幡浜から船で臼杵に渡り、第一日は延岡に宿を取りました。そして翌日、日向の美しい海岸沿いの車窓に見とれつつ、浮世のうさばらしをしながら、アタシは生きる活力を再び、見出しつつありました。欲もでました。霧島で途中下車し、霧島神宮や高原へも足を伸ばしました。
 そして霧島からは鈍行で湾曲する海を朧に眺めながらうたた寝し、夕刻、薄い黒煙をあげる桜島を背にした港で、ベスビィオ火山の噴火による街の惨劇に想いを馳せる、ついでにJ・バーグマンの映画「イタリア旅行」をも思いを馳せて、アタシのココロの噴火活動は、げに賑やかなものよと、自分で感心しつつ、天文館で祝杯をあげて、鹿児島郊外のTホテルの地下のバーで、いかした女性バーテンダーに熱をあげておりました。
 翌日は一路再び延岡へ。
そして、高千穂鉄道で高千穂へ足を伸ばすという、思いもかけない小旅行もしました。
山を山岳鉄道のような汽車で五ケ瀬川の渓谷を行くのですが、神話の世界をなぞるように「日之影」「影町」「深角」「天岩戸」と駅名がとても素敵なんです。
 で、失われたときを求めるにあまりあるときをすごして、臼杵駅前のロータリー、乗船港へ向う真際、滑りこんできた路線バス。
そこに一人の観光客風情の女子大生風が乗り込み、しばらく停車してました。
乗客は彼女のみでした。
アタシは息を飲み込みました。なんて可憐な人でしょう・・・アタシのセンチはその『瞬間』
吹っ飛んで、遥か彼方のカニ座星雲にでも消えていってしまったのです。バスは臼杵石仏行きと表示されていました。乗るか、乗らなまいか悩みながら、帰りの乗船券とにらめっこしていたら、バスは行ってしまいました―――。

 ―――あの日、あの時も、臼杵は雨でした。
当時、アタシは傘など持っていませんでした。
まだ、堂ケ迫の大日如来の頭は侵食により分離されたままでした。それらの未修復の石仏群をアタシはあの彼女の傘に入れてもらい、アタシの旅を成就させるべきだったと、何度も悔やみながら、一つの旅を終えた後に、再び魂は彷徨っていたのです。

―――そして、雨煙る、この日、アタシは当時の落とし前をつけるため、大日如来の鎮座する小高い丘に立ちました。
麓のホキの石仏群あたりから団体用のスピーカーを通した声が耳障りでもありました。

仏の顔も様々でした。
しかし、アタシはそのとき、そう思った瞬間に
開眼したことがありました。
――みんな、違う。
でも、ことさら違いを『強調』する必要なんてあるのだろうか?アタシ(たち)は雨にうたれるクラゲのようなものだ。浮遊を続ける。
しかし、やがて、人間としての生命を真っ当するときは誰にでも訪れる。
そうすれば、アタシ(たち)はどうなるか?
焼かれて、現体重の12%ほどの炭素になる。
その『炭素』は等しく重力は『同じ』だ。
そして空気とまざり、二酸化炭素となり大気圏内を『等し』く漂い、やがて別の生命のなにがしかの息吹となる―――奇跡的に―――。

つらい人、迷う人、死を恐れる人、哀しい人すべてが同じ炭素からはじまる・・・・・。

 臼杵から往復の別府へ帰るつもりが、大分で下車した。
駅前のアーケード商店街があります。
その入り口に大きなCDショップがあります。
その店の奥のJポップスのコーナーに、カウンターがあります。
そこにいる女性を知ってますか?
この世の方とまがうことなき、それはそれは美しい女性でした―――。
 アタシは思い出、を決して美化しません。
あるのは、どう導いても、美しい過去ばかりです。アタシは恐れない。
炭素になり、あなたがたと交わる日を、実は恐れながらも、今、をまっとうしたい。

 臼杵、鹿児島、大分、別府に、そして別れた埠頭を紡ぐ二つの旅となった――――。

 
SAFARI NJEMA ――よい、旅を!――
――湯煙の向こうにまるくん、です!――

ちゃんと意味がありました。
アタシはこうして朧ながらも、今、こうしてみなさんと正対して語りかけています。
あなたの、そしてアタシのココロの旅路の全容を解明してまいりましょう。
共に、学びあいませんか?!


・・・・・・な〜〜んて、申しながら、最終日
アタシは分科会抜け出して、別府駅にいます。
購入した切符は、日豊線で下ること約1時間の臼杵駅まで、です。
アタシは、かれこれ、ちょうど10年前の「忘れ物」を拾いに行く気分でありました。
 
 臼杵には、有名な石仏群があります。
平安時代から鎌倉時代にかけて造られたものです。奈良時代に豊後国の国府が置かれ、大友氏の本拠地として繁栄した地であります。
 で、アタシが「拾いに」行く目的地は、そうなんですが、その理由はまた別のお話です。
 たびたび、思い出話で恐縮ですが、トキを10年前の1993年に戻しましょう―――。

 2月のことです――。
アタシ、当時ダイスキだった人にフラレましたの。。。「まるくんは、一人でなんでもできるし、一人で生きていけるタイプ。アタシ、怖いんです。。」―――。
・・・・・こんな、お別れの言葉でした。
1992年、9月に彼女には、ギリシア土産の名前入りのカメオ(よく使った手/爆)を渡したけど、深夜の埠頭で、返品されました。。。
それっきり、でした。ストーカーまがいの電話もしました、正直申しまして。。。。
それぐらい入れ込んでいた自負もあったし、相性も抜群だった(はず)し、おまけに、体の相性がこのうえなくよかったんです。。。
9月に振られて、翌年2月まで余韻に浸りきるなんて後にも先にも経験ないんです・・。
 悶々とした日常を分断しようと、センチメンタルなジャーニーにでかけることにしました。
行き先は鹿児島に定めました。
陽光きらめくダイスキなナポリの景色にそっくりだと前々から憧れていたのです。
八幡浜から船で臼杵に渡り、第一日は延岡に宿を取りました。そして翌日、日向の美しい海岸沿いの車窓に見とれつつ、浮世のうさばらしをしながら、アタシは生きる活力を再び、見出しつつありました。欲もでました。霧島で途中下車し、霧島神宮や高原へも足を伸ばしました。
 そして霧島からは鈍行で湾曲する海を朧に眺めながらうたた寝し、夕刻、薄い黒煙をあげる桜島を背にした港で、ベスビィオ火山の噴火による街の惨劇に想いを馳せる、ついでにJ・バーグマンの映画「イタリア旅行」をも思いを馳せて、アタシのココロの噴火活動は、げに賑やかなものよと、自分で感心しつつ、天文館で祝杯をあげて、鹿児島郊外のTホテルの地下のバーで、いかした女性バーテンダーに熱をあげておりました。
 翌日は一路再び延岡へ。
そして、高千穂鉄道で高千穂へ足を伸ばすという、思いもかけない小旅行もしました。
山を山岳鉄道のような汽車で五ケ瀬川の渓谷を行くのですが、神話の世界をなぞるように「日之影」「影町」「深角」「天岩戸」と駅名がとても素敵なんです。
 で、失われたときを求めるにあまりあるときをすごして、臼杵駅前のロータリー、乗船港へ向う真際、滑りこんできた路線バス。
そこに一人の観光客風情の女子大生風が乗り込み、しばらく停車してました。
乗客は彼女のみでした。
アタシは息を飲み込みました。なんて可憐な人でしょう・・・アタシのセンチはその『瞬間』
吹っ飛んで、遥か彼方のカニ座星雲にでも消えていってしまったのです。バスは臼杵石仏行きと表示されていました。乗るか、乗らなまいか悩みながら、帰りの乗船券とにらめっこしていたら、バスは行ってしまいました―――。

 ―――あの日、あの時も、臼杵は雨でした。
当時、アタシは傘など持っていませんでした。
まだ、堂ケ迫の大日如来の頭は侵食により分離されたままでした。それらの未修復の石仏群をアタシはあの彼女の傘に入れてもらい、アタシの旅を成就させるべきだったと、何度も悔やみながら、一つの旅を終えた後に、再び魂は彷徨っていたのです。

―――そして、雨煙る、この日、アタシは当時の落とし前をつけるため、大日如来の鎮座する小高い丘に立ちました。
麓のホキの石仏群あたりから団体用のスピーカーを通した声が耳障りでもありました。

仏の顔も様々でした。
しかし、アタシはそのとき、そう思った瞬間に
開眼したことがありました。
――みんな、違う。
でも、ことさら違いを『強調』する必要なんてあるのだろうか?アタシ(たち)は雨にうたれるクラゲのようなものだ。浮遊を続ける。
しかし、やがて、人間としての生命を真っ当するときは誰にでも訪れる。
そうすれば、アタシ(たち)はどうなるか?
焼かれて、現体重の12%ほどの炭素になる。
その『炭素』は等しく重力は『同じ』だ。
そして空気とまざり、二酸化炭素となり大気圏内を『等し』く漂い、やがて別の生命のなにがしかの息吹となる―――奇跡的に―――。

つらい人、迷う人、死を恐れる人、哀しい人すべてが同じ炭素からはじまる・・・・・。

 臼杵から往復の別府へ帰るつもりが、大分で下車した。
駅前のアーケード商店街があります。
その入り口に大きなCDショップがあります。
その店の奥のJポップスのコーナーに、カウンターがあります。
そこにいる女性を知ってますか?
この世の方とまがうことなき、それはそれは美しい女性でした―――。
 アタシは思い出、を決して美化しません。
あるのは、どう導いても、美しい過去ばかりです。アタシは恐れない。
炭素になり、あなたがたと交わる日を、実は恐れながらも、今、をまっとうしたい。

 臼杵、鹿児島、大分、別府に、そして別れた埠頭を紡ぐ二つの旅となった――――。

 











旅行写真
府立体育館にて
府立体育館にて

No.1
オールド・モダン
オールド・モダン

No.2
オールドモダン2
オールドモダン2

No.3
川のある町で
川のある町で

No.4
近代美術館
近代美術館

No.5
大阪のとある
大阪のとある

No.6
天満宮の七五参
天満宮の七五参

No.7
求むまっとうな大阪の...
求むまっとうな大阪の...

No.8
パリのような景色
パリのような景色

No.9
梅田にて
梅田にて

No.10
黒門市場前
黒門市場前

No.11
大阪ミナミでリンガラ...
大阪ミナミでリンガラ...

No.12
京都駅で観劇
京都駅で観劇

No.13
京都駅にて
京都駅にて

No.14