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ゾウの兄弟
ゾウの兄弟

タイトル  ゾウの兄弟
目的地 アフリカ・中東 > ケニア > その他の都市
場所 アンボセリ
時期 1998 年 9 月
種類 景色
コメント シャッターを開けると、窓からにび色の光が一斉に入り込み、眼が慣れてきて見下ろすと眼下は海岸線だった。
インド洋を渡りきり、いよいよアフリカ大陸である。
航空路線図からして、眼下の世界はソマリアあたりの海岸線であろう。
波打ち際からずっとつづく砂の海である。
綿菓子のようないくつもの雲のみがコントラストを描いている。
所々にある湖と思っていたのはすべてが雲の影だった。
 1時間くらい海岸に沿って低空飛行していたが、急に右旋回し、草木の少ない、なだらかな稜線の高原が間近に見えた。
旋回した後、飛行機はますます低空をつづけ、何の変哲もない草木を刈り取ったグラウンドのような滑走路に滑り込んだ。
 アフリカ最初の一歩はナイロビ郊外のジョモ・ケニヤッタ国際空港から始まった。

 最初のアフリカ大陸といっても、モロッコ、エジプトなどで土を踏んでいるから正確には、ブラックアフリカがはじめてというべきだろう。
北西からマグリブ諸国をはじめ、リビア、ニジェール、チャド、東のスーダンにいたるまで、砂漠地帯=アラブ諸国というよりも、セム系語族の住む地域を狭義の意味において、アフリカとはいわないらしい。
大体、砂漠の境界線から南をアフリカと呼ぶらしい。
しかし、砂漠化は地球温暖化の影響もあいまって、どんどん加速して南下してる現状だ。
動物を観察するのは、「動物園でええやん」と決め込んでいた、動物愛護者でもなんでもない私でも、来世紀には存在しえない絶滅寸前の動物種がたくさんいると聞くにつけ、「すわ、今のうちにサファリだ」と呑気に決め込んでみたのである。
ケニア―――――それが、私にとってのアフリカ入門であった――――。

 その入門編の入門はもちろん、避けて通れぬ入国審査である。
更新したばかりのパスポートにはイエローカード(予防接種証明書)が二つ折りにはさんである。
東アフリカへの入国は、経由国によって、黄熱病の予防接種が義務づけられている。
入国審査官はイエローカードには一瞥せず、かったるそうにスタンプを押した。
 ジョモ・ケニヤッタ空港ロビーには、見るからに観光業者と思われる男たちがわんさかとたむろしていた。
この空港に降り立ったひとびとに対し、一人ひとりお世話できるくらいの数だ。
もちろん、サファリの勧誘である。
旅行者の大半は、すでに地元の旅行会社や母国の旅行会社に手配済なので、彼らは苦労水の泡覚悟でこうして外国からの飛行機から吐き出されるひとびとを粘り強く待ちつづける。
もちろん、決めつけてはいけないが、架空会社を装い、法外な値段を請求し、おざなりなサファリに送り出す輩も多いと、ガイドブックには書いてあった。
観光産業に立脚した第三世界のひとびとの知恵、といえばそれまでだが、触らぬ神(ガイド)に祟りなし・・・・・・・・・。
「ジャンボ!ケニアへようこそ!元気?サファリはもう決めてある?アンボセリ、ナクル、ツァボの一週間コース、ポッキリ1,500ドルだよ!ナイスね!ライオンが見られなかったらお代は差し引く良心的システムだよ!」いきなり黒ジャンパーにサングラスといういでたちのマフィア映画にでもでてきそうな大男に捕まってしまった。
「あの・・・・・僕・・・・・ちょっと、トイレ・・・・・」
クワバラクワバラ―――祭りの露店じゃあるまいし、そう簡単に「売りつける」なよな。
J社で申し込んだ総勢30名を越える私たち以外にも大勢の東洋人でロビーはごった返していた。
ムンバイ(ボンベイ)経由でケニアへ来た便だから当たり前といえば当たり前だが、そのなかには勧誘軍団の話を聞き入り、そのまま契約書らしきものにサインしているひともいて、一人またひとりと空港の建物の外へ消えて行った。
幸運を―――――。
私たちのツアーご一行様は夕刻着でもあり、大型バスで移動し、今夜はナイロビに泊まる。
 空港を出て、ものの5分とたたないうちにサバンナの風景が広がった。
しばらく走ると、道沿いに柵が連なる平原が見えてきた。
ナイロビからわずか8キロにある117平方キロメートルのケニア最小のナイロビ国立公園である。
怪我の治療などのため、あるいは孤児の面倒もため、他の国立公園などから連れてきている動物もいるが、人の手がかかっているのはやむをえないとしても、約2時間で周れるこの公園こそが、実はケニアで最も効率的により多くの動物を観察できるのである。
 鉄道を越え、ウルフハイウエィにバスはさしかかる。
そこはもう、大都会だ。
ナイロビのランドマーク、コンフェランスセンタービルなどの近代的な高層ビルが林立している。
ナイロビは赤道上の海抜約1,700メートルの高原にイギリス人が入植してつくられた、わずか100年足らずの歴史の新しい町だ。
その名はマサイ語の「エンカレ・ナイロビ」に由来する。
―冷たい水―という意味で、ここは水が豊富な土地であるという。
 バスはウルフハイウエィ沿いの近代的なIホテルに滑り込んだ。
J社のみならず多くの日本人観光客が宿泊するホテルらしい。
なるほど、ホテルのロビーは空港からそのまま移動してきたように、日本人でごった返していた。
J社のツアー客はここからコース毎に仕分けられることになる。
現地コーディネーターがはじめてここで登場し、手際よくコース別にフループに仕分け、担当ガイドを紹介していった。
タンザニアへ向かうコースもあった――実はこの時期、タンザニアは乾季の真っ最中であり、大平原で有名なセレンゲッティにいるはずの多くの動物たちは国境を挟んだ(動物たちに国境がないのはもちろんのことだが)ケニアのマサイ・マラ側に大移動していて「動物なんかほとんど見かけなかった」という話を、後にマサイ・マラで合流したときに名古屋の看護士たちから聞いた――。
あの、ヌーの大群の川渡りなんかとっくに終えていたのである―――。
危ない、危ない、乾季雨季のことはよく勉強していなかった。かくいう私も直前までケニアとタンザニアのどちらにするかかなり迷っていたのだから――――。
私たちアバーディアの森林公園を含めたコースは8名だった。
4WDのワゴンが2台用意されるそうで、「快適な」サファリが約束されていた(?)。
そのなかにはムンバイでのトランジットまで一人ひとり念入りにチェックしていた(笑)以外のひとたちがいた。
女三人組で、そのうちの一人の小柄でザンギリカットの女の子はまぁまぁ可愛くて、ほっと胸をなでおろした(笑)。
えーと、名前なんだっけ?「本命」に気がいっており失念。
「本命」はわずか4日間のアンボセリ、マサイ・マラのみを巡るツアーコースで、最初のアンボセリでしかご一緒できないみたいなのである、無念・・・・・・・・無念・・・・・・・・。
―まったく、何しに行きよるんかね、このおっちゃんは。もう、帰ってこんでよろしい!―
我妻の甲高い声が頭のなかで鳴り響くような気がしたが、「ハンティング」はアフリカの伝統スポーツなのであるぞよ、エッヘン!
ムンバイでのNさん間違い事件、といい懲りないひと、なのである、私は―――。

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