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トルコの青空絨毯屋
トルコの青空絨毯屋

タイトル  トルコの青空絨毯屋
目的地 アフリカ・中東 > トルコ > カッパドキア
場所 トルコ
時期 1991 年 8 月
種類 景色
コメント 道端にはシャクナゲの花が咲きほころんでいた。
土造りの家々の壁にはキリム柄や幾何学模様の絨毯が洗濯物のように並べられている。
 夏の観光シーズンともなると、寒村はどの家も絨毯屋に様変わりする感じだ。
絨毯を織るのは、幼女からせいぜい20歳までも女性の仕事らしい。
理由は、成人ともなると指が大きくなりすぎて精密な柄を織り出せないらしい。
少し、痛々しい感覚があるが、一枚の絨毯はひとりの女性が機織り機と向かい合った歳月をもが織り込まれているのだ。
ペルシアのシングルノットで織られる精密な図柄と違い、結び目を二重に絡ませて織られるダブルノットの手法はエスニックな図柄が多く丈夫なのが特徴だ。
ヘレケなどで有名な絹の高級絨毯やトルコ最大の産地カイセリでは、ペルシアから影響された図柄なども採用されている。
 カイマクルの地下都市見学を終えて、つかの間の休憩時、瓶詰めのオレンジジュースをストローで飲みながら、壁に並んだ色とりどりの絨毯を眺め、その絨毯を織った女性たちに想いを馳せていた。
 カイマクルにはカッパドキア地方がササン朝ペルシアやイスラム帝国の侵攻にあった6世紀から9世紀にかけて築かれた地下都市がある。
この地下都市はビザンチン朝時代のキリスト教徒たちがイスラム教勢力からの迫害を逃れるために築かれたというのが定説になっている。
この地方は聖パウロが布教してまった地であるという伝えもあり、伝統的にキリスト教の信仰厚い高潔な宗教観が培養さたであろうことは想像しやすい。
しかし、不思議なことがある。
「――不思議なことに、この都市からは、何の遺跡らしきものも発掘されていないのである。
文献の類はもちろんのこと、壁画なども一切発見できなかった。墓らしきものもあったがどういうわけかそこには、ひとつの遺体もなかった。したがって、いま私達がこの遺跡のことを考えるには、周囲の補助的な事情を鑑みて、推論を駆使するしかない――。『トルコの旅』立田洋司著・六興出版 」
まるで、古代インドのモヘンジョダロ、あるいはメソポタミアの古代都市ウル、ペルーのナスカ地上絵、
ユタ半島マヤ帝国のマチュピチュ空中都市、イースター島の像などと同類の「謎深い遺跡」ではないか。
 歴史の定説とは、その時代のさまざまな検証に沿って確立されていくが、科学的論証に乏しいとき、オカルトな史学が跋扈する隙間を与えてしまう。
下手すればカイマクルもモヘンジョダロと同じく「古代地下都市の核シェルター」になってしまうのだ。
それにつけても、信仰の力がこの都市を生んだのだとすれば、恐れ入るしかない。
 狭い通路で腰を曲げたまま進むのに苦労した。
いたるところに通気孔があり、息はつなぐことはできる。
ゾロゾロとアリの行列ような集団は「ここはワイン製造所、ここは穀物の貯蔵庫、ここは食堂、ここは家畜小屋」と、ローカルガイドの説明を受けるたび感嘆の声をあげていた。
都市機能の全てがこの地下に置き換えられていたのだ。
しかし、使われた形跡がないという意味では、「幻の都市」と言わざるをえない。
「現在、確かめられているだけでも、この奇岩の都市には4万人にのぼる人口が住むことが可能とだれており、発掘段階で地下8階にもなります。電線が引かれていないことなどで、私たちが見学できるのは限られた一部です」
暗く狭い通路を一列にアリ状態で一方通行の穴蔵を進む。
惜しまれる出口はもうすぐだ。
私の進行方向には常に薄闇に浮かぶ青い玉があった。白人観光客のスカートの色で、通行中、彼女の臀部がずっと鼻と目の先にあったのだ。
 出口は入り口と違っていた。
ああ、青空よ、青空だ。

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